2009年12月17日

本の誕生

羊皮紙を使用し、現在の本の概念となったものを最初に完成させ、伝えたのは、6世紀初めにベネディクトゥスがイタリアに設けた修道院の修道士たちであった。修道士は斜面の写台の前に座り25cm×45cmの羊皮紙を半分に折り、鵞ペンで各種インクを用いて聖句を写した。羊皮紙4枚ごとに咽に皮ひもを通し、それらを重ねて1冊にすると紐で山になった背ぐるみに皮を被せて表紙とした。またその表面から小口をかけて金具を打ったり、表紙に宝石を嵌めたりして装幀の美を競った。

羊皮紙よりも軽くて扱いやすい紙の発明は本の歴史にとって画期的であったが、実際に西洋で紙が羊皮紙に変わるようになるのは印刷術の発明以降であり、東西での紙の使用は10世紀以上の開きがある。 15世紀半ばにドイツのヨハネス・グーテンベルクが金属による可動性の活字を使い、ブドウ絞り機を利用した印刷機を操作して印刷術を興してから本は全く面目を改めることになる。 1455年以降グーテンベルクによって印刷された『グーテンベルク聖書』などによって印刷技術の意義が示されたことで印刷術は全欧州に広がり飛躍的な発展を遂げることとなった。

日本で作られた本、いわゆる和書の歴史は、洋書の歴史とは異なり、いきなり紙の本から始まる。『日本書紀』によれば610年に朝鮮の僧曇徴が中国の製紙術を日本に伝えたと言われ、現在残っている最古の本は7世紀初めの聖徳太子の自筆といわれる法華義疏であるとされている。また、奈良時代の本の遺品は数千点にのぼり、1000年以上昔の紙の本がこれほど多数残されているのは世界に例が無い。また、日本では製紙法の改良により、楮、三椏などですいた優れた紙の本が生まれている事も特筆すべき点である。

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印刷術に関しては、8世紀に現存するものでは世界最古の印刷物である百万塔陀羅尼が発行されたが、平安時代には経文や文学作品を上質の和紙の上に美しい筆遣いで書き写す手法がとられ、印刷に関しては長く後を絶つようになる。平安時代末から鎌倉時代には中国の影響で木版印刷が広く行われるようになり、主に仏教関連の書籍が寺院から刊行された。また慶長年間には勅命により日本最初の木製活字本が現れ、「古文考経」「日本書紀神代巻」などのいわゆる慶長勅版本が刊行された。一方1590年にはアレッサンドロ・ヴァリニャーノによってグーテンベルクの活版印刷術がもたらされ、キリシタン版数種が誕生したが、キリスト教禁止などの影響により技術が途絶えた。

2009年12月01日

天ぷら

天ぷら(てんぷら)とは魚介類、野菜、山菜 等に、小麦粉に卵をあわせた衣をつけて油で揚げた日本料理。「天麩羅」「天婦羅」とも表記し、「蕎麦」「寿司」に並ぶ代表的な伝統的「日本料理」である。
タネ(またはネタ)と呼ばれる食材に小麦粉と卵で作った衣をつけ、油で揚げた料理。本来は魚介類をタネとした物のみを天麩羅と呼び、野菜をタネとした物は「精進揚げ」(しょうじんあげ、しょうじあげ)と呼び区別される。現在、地方によっては精進揚げも含めた総称としても「天ぷら」という名称が使われている。タネの食材名に「天」を付し「海老天」「ナス天」等と呼ばれる。代表的なタネとして海老、茄子、かぼちゃ等を挙げることが出来るが、特に種類は限定されず、季節折々の食材を楽しむ事もある。ただし、肉類は基本的にタネとはならない(大分県の鳥天のような例外はある)。

日本人にとっては、家庭料理から高級料亭のメニューまで食べる機会の多い、非常に馴染み深い料理であり、また海外においては寿司、すきやきと並び、代表的な日本料理とされる。サクっとした衣の食感と、旬の食材を楽しむ料理である。
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和食の華の1つと位置付けられることが多く、天ぷら専門の職人がいる。
薄力粉、鶏卵、冷水を軽く混ぜ合わせて衣を作り、食材をくぐらせ160?180℃の油で揚げる。 衣に「華を咲かせる」と呼ばれ、衣を大きく見せ、よりサクッとした食感にさせる技法があり、麺類の種物等に使われる。天丼にする場合やかき揚げの場合は衣を厚めにする。

さくっとした食感には邪魔な小麦粉のグルテン生成を抑えるように衣を作る。グルテン生成の少ない、古くなった小麦粉を敢えて使うこともある。近年ではカラッと揚がるように、発泡性の重曹やベーキングパウダーなどが加えられた「天ぷら粉」が市販されている。

2009年11月27日

経済学批判草稿

『経済学批判』草稿(1861年 - 1863年)
紛らわしいので前2者と区別するため「1861年 - 1863年草稿」と呼ばれる。
1861年8月から1863年7月にかけてマルクスは23冊のノートを書く。マルクスは『経済学批判』第1部の続きとしてこれを「第3章 資本一般」から書き始めたが、途中でその方針は変更される。
マルクスは1862年12月28日に手紙の中で、すでに書いたものを推敲・清書して『資本論 - 経済学批判』として刊行する旨を書いているので、この頃にマルクスの“経済学批判・全6部”という構想が“資本論・全4部”構想に変化していったことがわかる。
この「1861年 - 1863年草稿」は新MEGA編集者によって「第2の『資本論』草案」と呼ばれており、大月書店から出ている『資本論草稿集』では第4巻から第9巻に相当する。
また、この「1861年 - 1863年草稿」23冊のノートの中には「剰余価値に関する諸学説」の草稿が含まれている。エンゲルスはこれを『資本論』第4部として構想されていた「剰余価値学説史」の本体になるものと判断したが、それを編集することはもはや自分には不可能であると考えたため、この仕事をベルンシュタインとカウツキーに委ね、悪筆で有名なマルクス独特の筆致の読み方を特訓した。後にベルンシュタインは『マルクス=エンゲルス往復書簡集』を編集・刊行。カウツキーは『資本論』の第4部となるはずだった『剰余価値学説史』を独自の一つの著作として編集・刊行する。
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「1863年 - 1865年経済学草稿」
上記「1861年 - 1863年草稿」を書き上げた後、マルクスは清書をするため、1863年8月から『資本論』第1巻第1部の「資本の生産過程」の原稿を書き始める。その後、1865年末までには第3部の全7篇までの草稿をほぼ書き上げることになる。
この「1863年 - 1865年経済学草稿」では『資本論』全4部構想が定まり、「第1部 資本の生産過程」「第2部 資本の流通過程」「第3部 総過程の諸形象化」の理論的な3部の後に第4部として学説史的叙述がまとめられることが確定する。したがってこの時期に『資本論』の理論的な3つの部分が書き上げられたと考えられている。この部分がいわゆる資本論の初稿であり、この「1863年 - 1865年経済学草稿」は新MEGA編集者によって「第3の『資本論』草案」と呼ばれている。

2009年11月13日

議事運営

法案は三読会制。伝統的に本会議(ないし全院委員会)審議を重視してきたが、最近は案件別(日本や米国のような所轄省庁別ではなく)常任委員会の設置など、委員会制度化へ向けての取り組みも見られる。ただ、やはり庶民院審議の花が、与野党対面の議席にて首相と野党党首が最前列で差し向かいに対決する本会議であることは、今も変わりないだろう。金曜日を除き8時間を超えるロングラン本会議である。しかも会期中平日は毎日開会されている。

その上、終了間際に延会動議が提出され、それの審議のためと称してさらに30分ほど審議を続行する。この30分間は毎日一人ずつの議員が、自分の選挙区の問題や社会の関心を集めている問題について政府に質問し対応を求める時間として使われており、特に無名の平議員にとっては活躍のチャンスとなる。
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議長は「スピーカー」と呼ばれる。議事運営の殆どを司り、金銭法案の認定権を握るなど、権限は大きいが、中立公平を貫き先例に従って慎重に行使するべきとされている。

議長は先任者が総選挙に出馬しないで議員職を引退するか、在職中に死亡した場合に原則として全会一致で選ばれる。その際は、政府と野党の中立公平を守るために、大臣経験者ではなくあまり政府に関わりの無かった重鎮議員が好まれる。議長は引退を申し出ないかぎり、総選挙を経ても留任するのが原則である。政権が交代したとしても議長は交代しない。このため政府与党と議長の出身政党が一致しない場合がある。総選挙の際には議長の選挙区には対立党(主に保守、労働、自由民主の主要政党)は候補を出さないなどの配慮がなされる。

2009年11月02日

食の安全に関する古い記述としては

食の安全に関する古い記述としては古代ローマ時代のものがある。それによると、古代ローマにおいて、「ワインの味がおかしい」と苦情を述べる市民たちの人数が増えた時に、調査官にその問題を調べさせた。するとワイン製造者らがワインを(正規の原料だけでなく)アロエや他の薬を使って人工的に熟成させていたことが明るみに出た。また、(古代)ローマのパン屋が、パンに「白い土」と当時呼ばれた炭酸塩や酸化マグネシウムを混ぜたことが発覚し告発された、という記録も残っている。

イギリスにおいては中世の時代まで、社会が農業を中心として成り立っており、人々のほとんどが小さな村で暮らしていたので互いに知り合いであり、食物に混ぜ物をされる危険はほとんどなく、食品は、まずまず健康的で安全だった。ところが産業革命が始まって、人々が農村から街に移り住むようになるとともに、インチキな食品が横行するようになった。ひとたび大きな街ができると、金儲けの為なら道徳や倫理のことを何とも思わないような食品製造業者や商人が集まってきたのである。
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ぼくの孫悟空
みるくぼうや
ゆめ牧場
亜美のアイドル
一番素敵だった日
仮面舞踏会
回転エネルギー
祈りの日々
鏡のラビリンス
健やか生活
今年の自然散策
獅子座
渋谷で買い物
笑顔がNo.1
人の暮らしへのメッセージ
青いリンゴ
蒼い影
地域情報化支援
東海情報生活を楽しむ夫婦

1819年には100人以上の醸造業者やその関係者が、黒ビールの材料として、正規の麦芽やホップでなく、様々な代用物を混入した罪で有罪の判決を受けた。

2009年10月23日

新線の建設予定地に既存の鉄道路線がある場合

新線の建設予定地に既存の鉄道路線がある場合、線路用地確保のためにその鉄道路線が廃止された例もある。江若鉄道・名鉄挙母線・宮崎交通線は、国鉄新線の建設(それぞれ、湖西線・岡多線・日南線)における用地確保のため廃止された。他にも定山渓鉄道の一部は札幌市営地下鉄南北線の、土佐電気鉄道安芸線は土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線用地の一部になっている。このような場合、戦前はその民間の鉄道路線を買収して国鉄線に直接編入していたが、戦後は車両・路盤などの諸設備において国鉄と私鉄の規格の差が大きくなったため、いったん私鉄路線を廃止して線路や設備を撤去し、その用地上に改めて線路を建設する方策に変わっていった。また、江若鉄道のように線路用地の流用率が低く、新線開業に伴う廃止補償に近い側面を持つ場合もある。しかし廃止してから新線が開業するまでに鉄道空白期間が生じるデメリットもある。かつては、路線自体が全く並行していなくとも路線の目的が国鉄新線と重なるため補償金を払って既存の鉄道を廃止させた例もある。たとえば朝倉軌道は、国鉄甘木線の開業に伴い廃止されたが、「福岡・久留米と甘木を結ぶ」という点以外甘木線と競合する要素は全くなく、並行する区間もなかった。

東海情報生活を楽しむ夫婦
買物ブギ
風りん栄光の足跡
眠れる森の美女
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アメリカ横断
イビザンちゃんのブログ
おかめ
オリーブ
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サザエさん
シンデレラ健康チェック
だいぢょうぶっ♪
トトロの休日
バイク旅行
ピーマントリオ
また北恵那鉄道のように、国鉄下呂線の敷設を前提に廃止されたものの、国鉄路線が未成線のままに建設が中止された例もある。この場合は結果的に、「利用者・貨物の減少」による廃線と同様の形態となっている。

2009年06月22日

生態学は、生物にかかわる研究をするので

生態学は、生物にかかわる研究をするので、大方は生物学に属するものと考えられる。生物学では、その扱う対象に様々な階層がある。(核酸を含む)分子を扱う分子生物学、細胞を対象にする細胞生物学、(組織や個体そのものの意味での)生物体を対象とする生物学、個体群を対象とする研究、群集の研究、生態系や生物圏に体する研究などである。最後の3つ(あるいは4つ)がほぼ生態学の範囲にあたる。

生態学では、生物とそれをとりまく環境間の相互の関係に焦点を当て、生物について俯瞰的に説明を行おうとする。そのため、地質学・生化学・地理学・土壌学・物理学・気象学などの他の学問分野とも深い関連をもち、綜合的な(=非還元主義的な)科学であるとされる。

以下に、生態学における諸分野を、スケールの小さなものから列挙する。

生態生理学(あるいは個体生態学):生物の型と環境要素との関連を研究する。
個体群生態学:個体群と環境との間の関係の研究。
群集生態学:生物群集、あるいは複数種の個体群と環境との関連を研究する。
生態系生態学:生態系の生物的・非生物的構成要素を通じたエネルギーと物質の流れを研究する。
地球規模の生態学:生態圏・生物圏というスケールでの生態学。

現代の生態学者にとっては、
物流
剣道
理学療法
建築学
救急医学
東海地方
結膜炎
有機化学
糖尿病
エックス線
湯・群馬
冠婚マナー集
玉露百科
楽しいアロマ
日本の音楽
皮膚と体毛
コーヒーで一息
循環器事典
さくら咲く
こどもの歌

個体レベル
個体群レベル
生物群集レベル
生態系レベル
生物圏レベル
といった幾つかのレベルで研究がなされ得る。

個体レベルで生態学的な視点と言えば、古くは生理生態学的なアプローチ、と言うことになろう。たとえばある種の海岸生物の分布域を、個体の耐塩性と関連づける、といったものである。近年では、行動生態学の進歩によって、行動や生活史の上での特徴までもが個体を単位に考える必要が示されている。

個体群レベルでは、対象は個々の生物の種、あるいはその一部である。ただしその個体を取り上げ、研究室内でその機能と構造を調べるのではなく、その生物が生存している場に於いて、さまざまな特性について考える。当然ながら対象とする地域は狭く、その生物の活動圏がひとつのまとまりである。

生物圏レベルの視点に立った場合、地球は水圏・岩石圏・大気圏といった構成要素から成っている。ときに第四の要素として扱われる生物圏は、惑星上で生命が発展できる部分である。

生物の大多数は-100?+100mの間に位置する区間に生息しているが、生物圏は深さ11,000m、海抜15,000mまでの非常に薄い表層である。

生物は、はじめ太陽光の届く浅い水辺で発達し、やがて多細胞生物が現われ、集合し、底生生物となった。また、紫外線から生物を守るオゾン層が生まれたことで、陸上で生活する生物が発展を遂げた。地上の生物の多様性は、大陸が分離・衝突することによって増大したと考えられている。

生物圏と生物多様性は、地球の特徴として不可分なものである。生物圏は、生物が存在する領域として定義されるが、生物多様性はその多様さを指す概念である。例えるなら、生物圏が容れ物であるならば、多様性はその内容物の状態を表している。多様性は、生態系レベル、個体群レベル(遺伝的多様性)、種間レベル(種多様性)といった異なる枠組みでとらえることができる。

生物圏は、炭素・窒素・酸素といった、多くの生物にとって必要な元素を非常に多量に含む。リン・硫黄・カルシウムなどのその他の元素も、生物には不可欠である。生態系・生物圏レベルでは、これらの要素は無機・有機の状態間で変化しながら、常に循環している。

生態系が機能するための主要なエネルギー源は、太陽光である。植物は光合成により、光を化学エネルギーに変換する。この過程で糖が生成され、生態系を動かす第二のエネルギー源となる。糖のうちいくつかは、エネルギー源として他の生物に利用され、その他の糖もアミノ酸などの高分子を形成する材料となる。植物は糖から蜜を作り送粉者を誘うことで、繁殖を可能にしている。

細胞呼吸は、哺乳類などの生物が糖を二酸化炭素や水に変換し、エネルギーを得る過程である。他の生物の呼吸活動に対する植物の光合成活動の割合は、大気中の成分構成(特に酸素)を決定する。気流は大気を攪拌することで、生物活動が濃密な地域と希薄な地域との間での大気バランスを保つ役割を持つ。

水もまた水圏・岩石圏・大気圏・生物圏の間でやり取りされる存在である。海洋は水を蓄えた巨大なタンクであり、熱的・気候的安定性を請け負うとともに、海流によって化学物質の輸送も担っている。

生物圏がどのように働いているか、また人間の活動によって生じる機能不全をより深く理解することを目的とし、アメリカのアリゾナ州にバイオスフィア2と呼ばれる密閉型人工生態系が建設され、様々な研究活動が行われている。

2009年06月04日

死票(しひょう/英: Wasted vote)とは

死票(しひょう/英: Wasted vote)とは選挙において、その票を投じた有権者を代表する当選者がいない票。狭義では、選挙区における落選者への票のこと。広義では、棄権しても議席配分・当落に影響を及ぼさない票。死に票(しにひょう)ともいう。

まず、単記非移譲式投票において、落選者へ投票した有権者は、どの当選者にも代表されない。これらの票を、狭義では死票と呼ぶ。

次に、単記非移譲式投票などを採用した全国区制・中選挙区制では、一人の有名候補に下位の当選者数人分もの票が集まる事があるが、その有名候補は数議席ではなく一議席しか取れないので、残りの議席分の票はあっても無くても議席配分に影響しない。このような、当選者への票だけれど議席獲得に使われずに余ってしまう票は、当選者の代表能力=議席からはみ出たと見做され、狭義では死票ではないが、広義では死票になる。

小選挙区制では死票が多くなり、大選挙区制(全国区制・中選挙区制含)や比例代表制では死票が少なくなる傾向にある。政党への単記非移譲式投票の場合、選挙区定数が同じなら、狭義の死票は大選挙区制が最も少なく、広義の死票は比例代表制のドント式が最も少ない。

一般に、死票の定義が一つ与えられると、その定義での死票を最少にする、議席配分を求める演算手順=選挙制度を、必ず一つだけ作ることが出来る。ただし、Approval votingの様に、演算量が爆発的に増える手順が死票を最小にするものの場合があり、この場合は演算量が余り増えない手順で近似する必要がある。

単記移譲式投票の様に死票になりそうな票が何度も当落線上の候補者に移譲されて生き返る制度の場合、死票の定義は困難となる。
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1996年以降の衆議院選挙(小選挙区比例代表並立制)では、比例名簿との重複候補は復活当選となる可能性がある。比例名簿において他の重複候補と同一順位か否かに関わらず、復活当選した候補者への票は基本的に死票に該当しないとされる。しかし政党の視点から見れば、これらの票は政党議席増加に使われない点で死票に該当し、「小選挙区当選の議員バッジは金、比例代表当選は銀、復活当選は銅」と揶揄される。

なお、落選者にとって得票数は供託金没収点の問題がある。また政党にとって得票数は政党助成金にも影響する問題である。さらに次回の選挙では、有権者が戦略投票を行う際に今回の得票数を参考にするため、次回の当落に影響が及ぶ。よって、落選したからといって投票の全てが無駄になるわけではなく、議席配分・当落以外で影響がある。しかし、世間は選挙直後の候補の当落のみに注目しがちであるため、これらのことは殆ど注目されない。当然、これらのことに力を割く候補・有権者は、これらには力を全く振り分けない候補・有権者に対して、肝心の議席配分・当落でハンディを負う。

2009年05月01日

秀忠隊は信濃の外様大名

関ヶ原の戦いが初陣であった。この時の秀忠隊は信濃の外様大名と、上杉・中山道に対処する部隊としての慣例により隣接地に封地を持つ譜代大名で構成していた[2]。しかし、上田城の対処で家臣団の意見の対立を招き、足並みを乱れさせた。最終的に秀忠は康政・忠隣の攻撃の意見を入れたが、秀忠を譜代が支えるという事はできなかった。
家康は秀忠が間に合わないと察するや、本多忠勝と井伊直政になお秀忠を待つか、開戦すべきかを協議した。忠勝は前者を主張し、直政は後者を主張した。家康は直政の意見を容れたため、この時点で秀忠は関ヶ原への遅参が確定した。
秀忠は関ヶ原の戦いのとき、3万8,000人の大軍を率いていながら、わずか2,000人が籠城する信州上田城を攻め、真田昌幸の前に大敗を喫した。このときの惨敗ぶりを、「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」(『烈祖成蹟』)と記されている。このため家康は関ヶ原の後、秀忠としばらくの間は面会すら許さず、面会したときには手ひどく叱責を加えたとまで言われている。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣出陣のとき、秀忠は10月23日に軍勢を率いて江戸城を出発した。24日に藤沢、26日に三島、27日に清水、28日に掛川、29日には吉田にまで到着するという強行軍を続けて秀忠が伏見城に到着したのは11月10日で、江戸から伏見まで17日間で到着するという強行軍を重ねた。このため、秀忠軍の将兵は疲労困憊し、とても戦えるような状況ではなかった。

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このときのことを、『当代記』では、次のように記している。
「廿六日三島。廿七日清水。廿八日掛川。廿九日吉田御着。路次依急給、供衆一円不相続、況哉武具・荷物己下曾て無持参」(供廻衆を置き去りにして、武具や荷物も持たずに駆けに駆け、清水に着いたときには徒士240人、騎馬34人ほどだった)。
これを知った家康は激怒し、秀忠に軍勢を休ませて徐行して進軍するように命じている。当代記では11月1日に秀忠が岡崎に着いたとき、「揃人数、急度上洛可有儀を、路次中急給故、供奉輩不相揃、軽々敷上給事、不可然」と叱責する使者を出したとまで言われている。ところが秀忠は家康の命令を無視して11月2日には名古屋、5日には佐和山にまで到着するという強行軍を続けた。このため家康は「大軍数里の行程然るべからざる由、甚だ御腹立」であったと『駿府記』には記されている。
大坂夏の陣の直前に行われた軍儀式では、家康、秀忠の双方が先陣を主張した。家康にとっては集大成であり、秀忠にとっては名誉挽回の好機であった。結局、秀忠が頑として譲らなかったため先陣は秀忠が勤めたが、総攻撃が開始された5月7日、最激戦となった天王口で先陣を勤めていたのは家康であり、名誉回復を果たすことはできなかった。
徳川秀忠の人物を、『徳川実紀』では次のように評価している。
「東照公(家康)の公達あまたおはしましける中に。岡崎三郎君(松平信康)はじめ、越前黄門(結城秀康)、薩摩中将(松平忠吉)等は、おづれも父君の神武の御性を稟させられ。御武功雄略おおしく世にいちじるしかりし中に。独り台徳院(秀忠)殿には、御幼齢より仁孝恭謙の徳備はらせ給ひ。何事も父君の御庭訓をかしこみ守らせられ。萬ず御旨に露違はせ給はで。いささかも縦覗の御挙動おはしまさざりき」

2009年04月17日

ティムール朝

ティムール朝(ペルシア語 : (Tīmūriyān), ウズベク語 : Temuriylar)は、中央アジアのトランスオクシアナ(現在のウズベキスタン中央部)に勃興したモンゴル帝国の継承政権のひとつで、中央アジアからイランにかけての地域を支配したイスラム王朝(1370年 - 1507年)。その最盛期には、版図は北東は東トルキスタン、南東はガンジス川、北東はヴォルガ川、南西はシリア・アナトリア方面にまで及び、かつてのモンゴル帝国の西南部地域を制覇したために、しばしばティムール帝国と呼ばれる。

王朝の始祖ティムールは、チャガタイ・ハン国に仕えるバルラス部族の出身で、言語的にテュルク化し、宗教的にイスラム化したモンゴル軍人(チャガタイ人)の一員であった。ティムール一代の征服により、上述の大版図を実現するが、その死後に息子たちによって帝国は分割されたため急速に分裂に向かって縮小し、15世紀後半にはサマルカンドとヘラートの2政権が残った。これらは最終的に16世紀初頭にウズベクのシャイバーン朝によって中央アジアの領土を奪われるが、ティムール朝の王族のひとりバーブルはアフガニスタンのカーブルを経てインドに入り、19世紀まで続くムガル帝国を打ち立てた。

14世紀初頭にモンゴル王族カイドゥの王国を乗っ取る形で中央アジアの東西トルキスタンに勢力を拡大したチャガタイ・ハン国は、1430年頃には早くも分裂に向かい、東トルキスタンの東チャガタイ・ハン国とトランスオクシアナの西チャガタイ・ハン国に分かれた。西チャガタイ・ハン国では多くの有力部族が地方に割拠したためにハンの権力は早々に喪失し、各地に分領を持つ有力な遊牧貴族による群雄割拠の態をなすが、この中で盗賊的な活動を行いながら小さいながらも自己の勢力を築きつつあったのが、チンギス・ハーンの出たボルジギン氏と同祖の家系を誇る名門バルラス部族の出身であるが、父の代までにすっかり零落していた没落貴族の息子ティムールであった。1360年、東チャガタイ・ハン国(モグーリスタン・ハン国)のトゥグルク・ティムールが西チャガタイ・ハン国に侵攻し、一時的にチャガタイ・ハン国の東西統一を成し遂げると、ティムールはこれに服属してバルラス部の旧領を回復する。

やがてトゥグルク・ティムールが本拠地の東トルキスタンに帰ると、ティムールは東チャガタイ・ハン国から離反し、西チャガタイ・ハン国の諸部族と同盟と離反を繰り返しながら勢力を広げ、1370年までにトランスオクシアナの覇権を確立した。彼はチンギス・ハーンの三男オゴデイの子孫という王子を西チャガタイ・ハン国のハンとして擁立し、自身はチンギス・ハーンの子孫の娘を娶って、「ハン家の婿婿(アミール・キュレゲン)」という立場においてマーワラーアンナフルに住むチャガタイ人の諸部族の統帥権を握った。一般に、この年をもってティムール朝の確立とする。

新王朝の確立後、ティムールは東トルキスタンに遠征してモグーリスタン・ハン国を服属させ、マーワラーアンナフルの西のホラズムを征服。さらにジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)から亡命してきたトクタミシュを支援してジョチ・ウルスを再統一させ、北西のキプチャク草原を友好国として中央アジアの支配を固めた。

続いて、1335年のフレグ王家断絶後、イルハン朝(イル・ハン国)が解体して諸勢力の割拠していたイラン方面の経略を開始し、1380年にはトランスオクシアナからアム川を越えてホラーサーンを征服、1388年までにイランの全域を服属させ、アルメニア、グルジアからアナトリア東部までを勢力下に置いた。1392年にはイランのファールス地方を支配するムザッファル朝を征服してイランの全土を完全に制圧し、さらにカフカスからキプチャク草原に入って、ホラズムの支配をめぐってティムールと対立したトクタミシュを討ち、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の都サライを破壊した。

1398年には矛先を変えてインドにも侵攻し、デリー・スルタン朝の都デリーなどを占領した。1400年には再び西方に遠征してアゼルバイジャンからシリア、イラクを席巻してマムルーク朝を破り、1402年にはアンカラの戦いでオスマン帝国を破って一時的に滅亡させ、シリア、アナトリアの諸侯国にまで宗主権を及ぼしてサマルカンドに帰還した。

こうしてティムールは30年間でモンゴル帝国の西半分をほぼ統一することに成功した。しかし、改めて東方のモンゴル帝国の大ハーン直轄領(元)回復をこころざし、元に代わって中国を支配した明への遠征に向かう途上の1405年にティムールは病死した。

シャー・ルフとウルグ・ベク父子の時代 [編集]
ティムールは生前から、新たに征服した地方は自身の王子たちを知事としその支配を委ねていたため、ティムールの死後、各地に分封されて勢力を蓄えていた王子たちの間で後継者を巡る争いが起った。ティムールは自身に先立って死んだ長男ジャハーンギールの子ピール・ムハンマドを後継者に指名していたが、ピール・ムハンマドは諸王子の中では力が弱く、権力を掌握することができなかった。かわって三男ミーラーン・シャーの子でタシュケント知事のハリール・スルターンが首都サマルカンドを奪い、ティムールの後継者として即位する。しかし、腹心の部下をもっていなかったハリールはたちまち首都での支持を失い、ホラーサーン地方の知事でホラーサーン駐留の軍団を統御することに成功したティムールの四男シャー・ルフに倒された。

1409年にサマルカンドを征服、ティムール朝の3代君主となったシャー・ルフは、サマルカンドの支配は自身の長男ウルグ・ベクに任せてホラーサーンに帰り、ホラーサーンの主要都市のひとつヘラート(現アフガニスタン西部)を本拠地としてティムール朝の再統一に乗り出した。シャー・ルフは自身の子飼いの部将たちを将軍に登用して権力を固め、王朝発祥の地である中央アジアの遊牧民の軍事力を背景に地方で割拠する三人の兄の子孫たちから次第に権力を奪っていった。40年近く続いたシャー・ルフの治世には明との外交が樹立されて商業活動が振興し、国際商業とオアシスの豊かな農業生産に支えられた繁栄を背景に中央アジアではイスラム文化が大いに発展した。

しかし、西方辺境の東アナトリアからイランの西部ではティムールに打倒されたモンゴル貴族に代わってトゥルクマーン遊牧民の活動が活発化し、黒羊朝の英主カラ・ユースフに率いられた彼らの手によってアゼルバイジャン地方がティムール朝から失われた。1447年、シャー・ルフが没すると再び諸王子たちが各地で自立して王位を争い始め、ティムール朝の支配は再び揺らぐ。シャー・ルフが死んだ後、その長男でサマルカンドを支配していたウルグ・ベクが正統な後継者として4代君主に即位するが、まもなく1449年に自らの長男アブドゥッラーティフの手によって殺害されてしまった。翌年にはアブドゥッラーティフも暗殺されてシャー・ルフ家からは実力者がいなくなり、混乱が続く。この間に黒羊朝が急速に勢力を広げ、イランの西部から東部まで進出してホサーラーンの主邑ヘラートまで占領していた。

サマルカンド政権とヘラート政権 [編集]
1451年、シャー・ルフの兄ミーラーン・シャーの孫アブー=サイードが、中央アジアのトゥルクマーンとウズベクの支援を受けてサマルカンドを奪取、シャー・ルフ家の王子に代わって第6代君主に即位した。アブー=サイードはナクシュバンディー教団の支持を獲得してその宗教的権威のもとにトランスオクシアナの勢力を固め、1457年にはアゼルバイジャンで反乱が起ったためにヘラートを放棄して東イランに帰還せざるを得なくなった黒羊朝と交渉して、ヘラートを含むホラーサーンを始めとするイラン東部を返還されて、シャー・ルフ没以来の10年ぶりのティムール朝の単独君主となった。

アブー=サイードの治世では、反乱やウズベクの侵入に悩まされつつも統一は保たれた。しかし、1467年にアゼルバイジャン方面でトゥルクマーンの白羊朝が黒羊朝を破って勢力を確立すると、これを東部イラン回復の好機と見たアブー=サイードは西方へと遠征を敢行し、1469年に白羊朝の英主ウズン・ハサンの軍によって大敗を喫し、殺害された。アブー=サイードの死後、その長男スルタン・アフマドがサマルカンドで即位するが、もはやマーワラーアンナフルを確保するのが精一杯で、ホラーサーンではヘラートを本拠地とするティムールの次男ウマル・シャイフの曾孫スルタン・フサインが勢力を確立していた。こうしてティムール朝はサマルカンド政権とヘラート政権の分立の時代に入る。

サマルカンド政権ではウルグ・ベクの知事時代に繁栄の絶頂を極めていた都市文化が衰退に向かいつつあったが、ナクシュバンディー教団の権威のもとで安定が保たれた。しかし、1494年にアフマドが没すると王子たちと有力な将軍たち、ナクシュバンディー教団の教主たちの間で王位を巡る内訌が勃発し、さらに北方のウズベクの南下・侵入によってサマルカンド政権の支配は急速に崩壊していった。1500年、サマルカンドはシャイバーン朝のシャイバーニー・ハンによって征服され、サマルカンド政権は滅びる。1503年にはアブー=サイードの孫バーブルがサマルカンドを奪還するが数ヶ月で再びシャイバーニー・ハンに奪取され、中央アジアはシャイバーン朝に制圧されてゆく。

一方、ヘラート政権では40年近くに及んだスルタン・フサインの治世のもとで安定を実現し、サマルカンド政権や白羊朝との友好関係のもと、首都ヘラートではティムール朝の宮廷文化が絶頂を迎えた。しかし、平和の影でヘラート政権は次第に文弱化しており、1506年にフサインが死んだ後にはまったくその力は失われていた。翌1507年、ヘラート政権は、サマルカンドから南下してきたシャイバーニー・ハンの前にあっけなく降伏し、こうして中央アジアにおけるティムール朝の政権は消滅した。

1511年、バーブルはイランの新興王朝サファヴィー朝の支援を受けて再びサマルカンドを奪還するが、サファヴィー朝の援助を受けるためにシーア派に改宗していたために住民の支持を失い、1512年に再びサマルカンドを失った。バーブルはこれ以降、中央アジアの支配奪還を断念し、南下に転じる。アフガニスタンのカーブルを本拠地としていたバーブルが、デリーのロディー朝を破り、インドにおけるティムール朝としてムガル帝国を打ち立てるのは、その晩年の1526年のことである。

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