関ヶ原の戦いが初陣であった。この時の秀忠隊は信濃の外様大名と、上杉・中山道に対処する部隊としての慣例により隣接地に封地を持つ譜代大名で構成していた[2]。しかし、上田城の対処で家臣団の意見の対立を招き、足並みを乱れさせた。最終的に秀忠は康政・忠隣の攻撃の意見を入れたが、秀忠を譜代が支えるという事はできなかった。
家康は秀忠が間に合わないと察するや、本多忠勝と井伊直政になお秀忠を待つか、開戦すべきかを協議した。忠勝は前者を主張し、直政は後者を主張した。家康は直政の意見を容れたため、この時点で秀忠は関ヶ原への遅参が確定した。
秀忠は関ヶ原の戦いのとき、3万8,000人の大軍を率いていながら、わずか2,000人が籠城する信州上田城を攻め、真田昌幸の前に大敗を喫した。このときの惨敗ぶりを、「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」(『烈祖成蹟』)と記されている。このため家康は関ヶ原の後、秀忠としばらくの間は面会すら許さず、面会したときには手ひどく叱責を加えたとまで言われている。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣出陣のとき、秀忠は10月23日に軍勢を率いて江戸城を出発した。24日に藤沢、26日に三島、27日に清水、28日に掛川、29日には吉田にまで到着するという強行軍を続けて秀忠が伏見城に到着したのは11月10日で、江戸から伏見まで17日間で到着するという強行軍を重ねた。このため、秀忠軍の将兵は疲労困憊し、とても戦えるような状況ではなかった。
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このときのことを、『当代記』では、次のように記している。
「廿六日三島。廿七日清水。廿八日掛川。廿九日吉田御着。路次依急給、供衆一円不相続、況哉武具・荷物己下曾て無持参」(供廻衆を置き去りにして、武具や荷物も持たずに駆けに駆け、清水に着いたときには徒士240人、騎馬34人ほどだった)。
これを知った家康は激怒し、秀忠に軍勢を休ませて徐行して進軍するように命じている。当代記では11月1日に秀忠が岡崎に着いたとき、「揃人数、急度上洛可有儀を、路次中急給故、供奉輩不相揃、軽々敷上給事、不可然」と叱責する使者を出したとまで言われている。ところが秀忠は家康の命令を無視して11月2日には名古屋、5日には佐和山にまで到着するという強行軍を続けた。このため家康は「大軍数里の行程然るべからざる由、甚だ御腹立」であったと『駿府記』には記されている。
大坂夏の陣の直前に行われた軍儀式では、家康、秀忠の双方が先陣を主張した。家康にとっては集大成であり、秀忠にとっては名誉挽回の好機であった。結局、秀忠が頑として譲らなかったため先陣は秀忠が勤めたが、総攻撃が開始された5月7日、最激戦となった天王口で先陣を勤めていたのは家康であり、名誉回復を果たすことはできなかった。
徳川秀忠の人物を、『徳川実紀』では次のように評価している。
「東照公(家康)の公達あまたおはしましける中に。岡崎三郎君(松平信康)はじめ、越前黄門(結城秀康)、薩摩中将(松平忠吉)等は、おづれも父君の神武の御性を稟させられ。御武功雄略おおしく世にいちじるしかりし中に。独り台徳院(秀忠)殿には、御幼齢より仁孝恭謙の徳備はらせ給ひ。何事も父君の御庭訓をかしこみ守らせられ。萬ず御旨に露違はせ給はで。いささかも縦覗の御挙動おはしまさざりき」